卒業式
3月24日、金曜日。
大学最後の現場となる卒業式に行ってきた。眩いほどの光を放つまだ見ぬ大学生活への期待と不安を抱く新入生の熱気に溢れていた、あの4年前の入学式と同じ会場で卒業式は行われた。この日の空は4年前の時と同じ快晴だったこともあってか、入学式の時のことを思い出さずにはいられなくなり、暫し物思いに耽ることとなった。そして今日、大学で学生証と引き換えに学位証を受け取り、ようやく「卒業する」という実感が湧いてきた。前にも書いたことがあるけど、やっぱり卒業っていいもんだね(笑)
そもそも今通っている大学に私は特段行きたかったわけではなく、第二志望に過ぎなかった。もっとも「なぜ大学に行きたいのか?」と聞かれたら「関西で一番賢いとされている大学を卒業したという肩書が欲しいから」と躊躇うことなく答えるような奴だったため、第一志望への志望動機も大したものではないのだが…
にも関わらず、やはり第一志望の大学に通いたいという気持ちは強く、滑り止めの私学を蹴ってまでもう一度受験をする、という道を私は選んだ。結果は上にも書いた通りだ。二回も挑戦したのに希望を叶えることが出来なかった自分への不甲斐なさであったり、やるせない気持ちは今も忘れることは無いし、今後も忘れてはいけないものだと思う。卒業式が終わってFacebookなどで「第一志望ではなかったけれども、素敵な仲間にたくさん囲まれて素晴らしい大学生活だった」という投稿を目にする機会が多い。私にはどうしてもそうは思えない。「自分が行きたかった大学に通っていた場合に出会っていたかもしれない友人や教授」は今よりもっと素晴らしかったかもしれないよ?と(笑)
自分の努力不足を棚に上げて恨みつらみを書いても何も生まれないのは百も承知だ。ただどうしても書かずにはいられなかった自分がいた。と、ここまで言っておきながらも、今通っている大学も悪くはないなと思えた4年間だった。決して友人は多くないし、特に青春っぽいこともしていないし、真面目に大学に通ったとも言えないが、この4年間はとにかく楽しかった。恋が実ったり実らなかったりも含めて、人間的に少しは成長出来たような気がするし、何よりこんな自分を4年間も受け入れてくれた大学の度量の大きさには頭が上がらない。(早速さっき書いたことと矛盾しかかっているからこれ以上は言わないよ~)
4月から私は社会人になる。今と変わらず実家に住み続けるが故に、生活環境に大きな差が無く、いまいち「社会人になる」という実感がわかない。けれども、平日に現場に気軽に行けなくなるという事実だけは頭から離れないし、考えたくもない。社会人って百害あって一利無しとしか思えないんだけどな。
大学生の4年間で私は馬鹿になった。自慢じゃないが入学試験の成績は上位十数位には入るものだった。4年が経過して今日受け取った成績表に目を通すと、そこには「可」*1の羅列があった。心を入れ替えて勉強しないといけない。取得したいと考えている資格があるので、まずは資格取得に向けて勉強する。いつ何時も転職出来るように備えだけはしとかないといけない。というのが社会人に向けての個人的な決意(笑)
最後に…
大学生活の4年間は人生の夏休みと評されることが多い。実際、平日に自由に休めて、半年毎に2か月の長期休暇があったりする期間は大学生活の4年間しかなく、人生の夏休みそのものだ。そんな人生の夏休みの素晴らしさに私は今になって気が付き始めた。失う時に初めて失うものの本当の価値を知るなんて愚かの極みにすぎない。こんな私が嫌になる。
経済的な負担を私に強いることなく4年間の大学生活を送らせてくれた両親にはただただ感謝の気持ちしかない。今日もらった学位証を持って「ありがとう」とリビングにいる両親に伝えてくるので、ここでお終いにしておく。
*1:大学の成績は秀、優、良、可の四段階で評価される。つまり可は単位が認められる最低ラインの評価
にがつじゅうろくにち
今日は木曜日。天気は晴れ。2月とは思えない暖かさだった。ぬくぬくぽかぽか~。
特に何もない1日を過ごした。11時に起きて朝ご飯を食べて、生徒に教える過去問をさらっと解いて昼ご飯を食べて2時間バイトをして帰ってきたらおやつを食べて、晩ご飯までゲームしてた。
私に春休みが訪れることはもうない、と考えると目の前が真っ暗になって憂鬱の極みに陥っているなう。明日は良い日になるといいな~
インスタグラムを今になって始めてみたぉ↑↑
今日はこの辺で…
失うものと、失ったもの
失うものと失ったもの。我ながらもっと上手いタイトルがあったのではないかと思うが思いつかなかった。失うものは「I will lose」、失ったものは「I lost」と考えていただきたい。
「時は金なり」、「若さはお金では買えない」。これらはどちらも昔からある言い回しである。私の人間力?が足りなかったからかもしれないが、この言葉の意味することが最近何となくではあるが分かり始めた。
私は今、学生と社会人の節目の時期を迎えている。人生のモラトリアムとか人生の夏休みとかそんな風に言われる4年間を過ごしてきた。話が少し逸れるが、私は卒業式大好き人間である。入学式よりも断然卒業式の方が好きだ。入学式はまだ勝手も分からず右往左往戸惑うが、卒業式は完全に自分のテリトリーで行われるからだ。加えて、次のステップに進むという希望に満ち溢れており、これほど素晴らしい学校行事はない(修学旅行や文化祭よりも…)、と私は思う。しかしながら来月行われる卒業式は憂鬱でしかない。理由は火を見るよりも明らかである。それは次のステップに希望の欠片も存在しないからである。卒業式を終えると社会人となり、平日は基本的に毎日働くことになる。となると、今まで「平日は倍率低いからコここに申し込もう!」ってなってたのが、「土日しかコンサートに行けない…」となるのは精神的苦痛を被る事態であることは言うまでもないだろう。こうして私は来月いっぱいで「学生」という身分を失う。
行きたいと思ったコンサートに行ける。これはチケットや交通手段などが手配出来れば誰もが当たり前に享受出来る物だと考えていた。それが私の思い上がりも甚だしかったのだ、ということに気が付いたのは去年の下半期のことである。ある日私は健康を失い、自由に出かけられない病に罹った。学生最後のツアーとなるであろう11月からのツアーを心待ちにしていた矢先の出来事であった。ツアーには行けないかもしれない、と思うと目の前が真っ暗になった。本当はもっと他に心配しないといけないことがあるのだが、オタク精神の下で私は第一にこの心配をした。結果的にはツアーに参加することが出来たのだが、いつ何時また病に罹るかは分からない。健康は何よりも大切であると痛感させられた。「若いから大丈夫」と思うのではなく、若くても何かしらの体調不良があれば、病院に行かないといけない。嫌なことであるが、回り回ってそれが自分を助けることになるのだ。かくして私は健康を失った。
失うものと失ったもの。どちらも取り戻せるものではない。「誰かと付き合う」という行為だって、結婚しなければ最後にはその大切な人は失うことになるし(どんなにラブラブでも別れるよねww)、結婚しても死ぬときには大切な人を失う。結局人間は常に何かを失い続けながら生きている。上手く付き合っていくしかないのだなと思った。